2007年公開の邦画、「国道20号線」(富田克也監督)です。今村亮さん企画のイベント「攻めてる?」での上映会で観賞しました。
この作品、社会学者の宮台真司が2007年ベスト映画という評価をしていることもあって、以前から観たかったのですが、渋谷アップリンクで行われている月例上映会が土曜日開催で行くことが(仕事で)ほぼ不可能で悔しい思いをしていた作品です。今回はイベント上映ということで、監督の富田克也さんと脚本を書かれた相澤虎之介さんとお話も出来るということで、wktkしながら参加してきました。
会場は、いつもは21:30に開店するというバーを貸し切り、普段はジャズ等の演奏が行われているであろうスペースに手作りのスクリーンに家庭用プロジェクターという簡易なもの。最初は、「うわ、ちゃんと観れるのかな」と思いましたが、実際に観賞してみると、むしろシネコンのようなところで観るよりもこの映画には合っている気さえしました。上映会後に行われたトークライブやその後の懇親会もややアツめに語ることが出来、大変楽しく過ごさせていただきました。(政権交替についての話には、キツめのツッコミを入れてしまいました。私としては、一般に今の政治に不満を持っている方が、「何に」不満なのかを純粋に知りたかっただけなのですが..。スミマセンでした..。)主催者の今村さんに感謝!です。
さてこの映画ですが、自主制作映画ということで、役者さんも監督の幼なじみの方ばかりで、プロの俳優は1人も出演しておらず、さらに撮影スタッフは監督・脚本家も方も含めて4人という、まさに「手作りの映画」です。物語は…と言えるほどのストーリーはなく、ある若者夫婦の生態を徹底的に描きます。パチンコ店、消費者金融のATM、(パチンコで勝ったら)ドンキ・ホーテ、(チェーン店の)焼き肉屋・・・。小さな稼ぎをすべて奪っていく、システム化されたスパイラル・ワールド。それにハマっている若者を見つけ、「そのお金を自分のところに」とばかりにウマい話を持ちかけるヤミ金融の経営者。結局、システムの構築者側のもとには永久機関のようにお金が集まり続け、システムの内側にいる人々はいつまでたってもそのスパイラルから抜け出せない…。
私自身、学生時代に同じような生活をしていたこともあって、登場人物の行動パターンは妙に納得できるものでした。パチスロで負けてカードでお金を借りまくっていたこともあるし、学生ローンに行ったこともあります。でもあの頃は、それが妙に楽しかったことをよく覚えています。「その日、朝イチで読みが当たるかどうか」でその日の食事の質(場合によっては「食う/食えない」)が決まる生活はスリリングでした。思えばあの頃、自分が「システムの内側」にいることに薄々気づきながらも、そのことを直視はしていませんでした。この映画の途中、ヤミ金に勤める小澤が、返済が滞りがちな客にも強い追い込みをかけないことに疑問を呈してきた部下に、「あいつツブしてもしょうがないだろ。生かさず殺さず、長くつきあっていくんだよ」みたいなことを言う場面があります。これがシステムの外側にいる人間のセリフなんですね。人は、「システムの内側にいること」に気づいてしまったら、そのことに自覚的でいながら生きて行くことは難しい。そしてそのセリフを吐く小澤も、もっと大きなシステムの内側にいることに気づかない…。
とまぁ、私には「自分がちょっと近くまで行った世界」を描いた作品であったこともあって興味深く集中して鑑賞することが出来ましたが、正直に言うとこれは一般人にはなかなか伝わらないだろうなーという気はしました。監督自身が「映画的カタルシスは描きたくない、泣かせたくもない」と言っていましたが、つまりこの映画は観客に何も提示しません。単に「お前たち、システムの内側にいるんじゃないの?」と問題提起してくるだけ。「現状を教えてやるから、あとは自分で選択しろ」と。しかし、複雑化した社会の中でシステムの内側に入らないことは非常に難しくて、そこから逃れようとすると「イントゥ・ザ・ワイルド」の主人公のようになってしまいます。要は、そのことに自覚的でありながら、自分にとってより良い(外側にいる連中にやすやすと甘い汁を吸わせない)選択をしてシステムを利用しつつ生きて行くという「強度」を身につけるしかないわけで、それに耐えうる人はどれほどいるのだろう?という気がしてしまいました。この辺、ホントは監督に疑問を叩き付けてみれば良かったと思うのですが、観賞後はなんだか考えがまとまらなくて、うまくコトバにする自信がなくて、機会を失ってしまいました..。
冒頭でリンクした宮台の文章では、この映画をベタ褒めしていて、例えば、
第一は、主人公の男と同棲する女が部屋の中で着替えるシーンのバックショット。女の重量感のある半ケツが映る。その瞬間、私は「ああ、この人(監督や脚本家)は〈世界〉を知っている」と直感する。
というもの。あるいは、
中盤に差し掛かるあたりで、昼下がりのドンキホーテ前、駐車場に駐めたワンボックスのデッキで、女が主人公の男を待つ一瞬のシーン。目の前を家族連れが通るたった三秒間のシーンである。 その瞬間「あの時間」が訪れる。女の結婚願望を示唆する説明的シーンだと受けとめる向きもあろう。違うのだ。そこだけトーンが違う。違った時間が流れる。人間関係でなく、摂理の時間。叙情ならざる叙事の時間。「時間は誰のためにも流れていない」と確信する瞬間。
とも。でも、私には残念ながら宮台と同じ眼は備わっていませんでした。リアリティを感じさせるシーンだとは思ったけれども、上記のような「あの時間」的感覚はありませんでした。どうやら、宮台的に言えば私は「<世界>を知らない」者のようです…。orz
ただ、こちらの言葉には大いに共感できました。
『国道20号線』には古き良き時代がある。まだ地元の不良少年たちがつるむことができた時代。それも地域のヤクザな大人たちにケツ持ちしてもらえた時代。だから、映画が酷薄な現実を描いていながらも、私には、「パラダイス感」や「居場所感」が感じられるのである。
そう、この映画で描かれる仲間意識や、空間的・時間的つながりと連続性のある人間関係。私はこの映画から悲惨さというよりも暖かさとか懐かしさを感じてしまったのでした。
そして昨日のイベントが開催されたお店。いかにも時間的・空間的・地域的なつながりや連続性のある人間関係(客と店員の関係)が築けそうなたたずまいとお店の方。マニュアル重視のマクドナルド・コンビニ的サービスとは対極をなす温度と積み重ねを感じさせる人間関係。「国道20号線」を上映するには、渋谷アップリンクよりもむしろ上質なフィット感が得られる「劇場」だったように思います。
個人的満足度:★★★★☆(イベント全体とお店の雰囲気とで★プラス1個しちゃった感じかも)
(3/24追記)
しかし、この作品を「2007年ベスト」とした宮台氏って、(著書では幸せそうですけど)本当に幸せなのかなぁと思ってしまいます。
「虐げられていた者が逆転して成り上がる」装置によってカタルシスを与える映画、「愛でられている者が死ぬ」装置によって泣かせる映画、「大きな物語を描く」ことによって前近代的な夢を与える映画、「小さな物語を描く」ことによって日常的な共感を呼び覚ますポストモダン的な映画、こういった分類に収まってしまう映画は、確かにアタマの中で「あぁ、このパターンか」と思った瞬間に冷めてしまう面はあるけれど、「それはそれとして」楽しむこともできると思うのですが。ま、映画を何千本も観ると、それもうんざりしてくるのかも知れません。だとすれば私がこのまま映画を観続ける先にあるものは…うーん。
思うに、宮台氏は社会学者ゆえに(あるいはその前の段階からその素養があったがゆえに)常に「システムの外側」からモノを観ようとする習性が高度に完成されすぎているのではないでしょうか。私なんかは、映画鑑賞中に「システムの外側からの風景」がチラっと見えてしまったような気がしたときにも、それには一旦目をつぶって内側にとどまるようにしていたりするのですが。まぁ、私がいると思っている「外側」なんて、宮台氏から観れば「ずっと内側のほう」なんでしょうけれど。(^^;
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