2月に観賞し、大いなる衝撃を受けた作品、「チェンジリング」について、社会学者の宮台真司氏の論評が彼のブログに掲載されていました。私は映画観賞を、娯楽の場としてよりはむしろ「思考訓練の場」「自分の感性を確認する場」と思っているところがあるんですが、思考訓練のお手本というか目標が宮台氏の記事です。彼の映画記事は、いわゆる「映画論評」とは一線を画していて(そもそも面白い/面白くないという視点で映画を観ていないと思う)、「その作品が、社会のどういった面を投影しているのか、社会のどんな部分のメタファーになっているのか」といったところにのみ注目しています。ですから、そういったコト(=社会)に興味のない方には不快な部分もあるかとは思うので、読む場合にはご覚悟を。(^^;
さて、私がチェンジリングを観賞したときの記事はこちらです。「人間のつくる社会ってのはこういうものだ」というクリント・イーストウッドからのメッセージ、また組織(システム)の腐敗と崩壊をテーマと受け取っているようです。ただ、私はこの作品の観賞後しばらく、少なくともエンドロールの間は座席から立ち上がれなかったことをよく覚えています。映画に受けた感動や衝撃を言葉にするのは、それが「いい映画」であればあるほど難しいものです。文才のなさ故か、それとも真に理解していないからか、むしろ言葉を選べば選ぶほど陳腐になっていく気がしてしまいます。チェンジリングはそれを特に感じた作品でした。「社会ってものはこういうもの」というメッセージとは感じたものの、単に「腐敗と崩壊」を描いただけで「立ち上がれないほど」の衝撃を受けたのか…?そんな疑問を上記の文章を書きながらも感じていました。
そんなわけで今回、模範解答というか正解を期待して宮台氏の記事を読んでみた次第です。
『許されざる者』以降のイーストウッド映画は〜(中略)〜「視えてもいないくせに視えた気になる(ことで人を糾弾する)という原罪」というモチーフが反復されきた。
イラク人質事件でボランティアが人質になると「ノコノコ危険地帯に行くからだ」と噴き上がり、少年の手紙(数百通の中の1通のほんの一部)に少年法制度を盾にしたような記述が見つかると一気に「殺せ!」とまくしたて、(ほんの微罪…むしろ罪になるかどうか非常に疑わしい案件で)第一秘書が逮捕されると一気に「収賄政治家」と見なしてしまう…。もう日常的に目にする光景ですね、「視えてもいないくせに視えた気になる」というのは。チェンジリングでは、新聞報道を見た市民がそれに当たるということなのでしょう。ただし、宮台氏もこれを「原罪」と言っていることからも分かる通り、これは「人間の性質」とも言えるもので、ゼロにすることは出来ません。というよりも、全てが「視える」或いは「視えている部分が全体のどの部分かを把握できる」のは人間ではなくもはや社会の外側にいる神ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが。それでも、「人間とはそういうものだ」ということに自覚的になることによって、噴き上がりを抑えるくらいのことは出来るはずで、この辺はまさに教養の有無が問われる部分なのでしょう。
では、何が確実に描かれているのか。断言しよう。「遅れ」である。この映画には「遅れ」が描かれている。そのことを見逃した映画批評はすべてがクズと同じだ。アンジェリーナ・ジョリー演じる母親クリスティンの反応は、すべてが一貫して「遅れ」を被るのである。
…….私の記事はクズでした。orz
(あ、この「クズ」という挑戦的な表現は、宮台が「世に多くの(望ましくない)言説が溢れている」状況下において、自分の意見を(多勢に無勢とならぬように)流布させるための戦略的な「手段」です。あまり噴き上がらぬよう…まぁ、ここにおいでになる方は大丈夫だと思いますが、一応。)
この映画をよく観てほしい。「母の強さ」に視えるものも、「権力を恐れぬ意志」に視えるものも、すべてはこの「遅れ」に由来している。そう。この「遅れ」ゆえに、比喩的にいえば、「普通の人には命中してしまうはずの弾丸が、クリスティンには当たらない」のだ。(中略)疎隔による〈システム〉からの脱落が、脱落した者に死をもたらすこともあれば、脱落させた〈システム〉に死を宣告することもある。
ほとんどの人が「乗れる」システムにおいて、「乗れない人」がもたらす悲劇は現代においても散見されます。秋葉原連続通り魔事件などはその典型でしょうか。ただ、その悲劇が結果としてシステムに鉄槌をくらわせることもある。むしろ社会はその連続で腐敗と崩壊と再建を繰り返していく面があるのでしょう。
世の中は、「人間に合わせた社会が構築される」のではなく、「社会に合わせて人間が更新される」ことが圧倒的に多いと感じます。いえ、原始社会では前者が中心だったのでしょうけれど、近代化された世の中ではほとんどが後者なのでしょう。だとすれば、更新されない人間がいてもそれは当然で、システムが「もうみんな更新されただろう」と思って暴走しはじめたころに、そういった人間に「引っかかって」破壊されうるということなのかなと思います。
私が「遅れ」のプレスクリプションに敏感なのは、私自身の感覚がいつも「遅れ」るからである。この「遅れ」はそもそもは3月生まれで発達が遅れ気味だった上に、小学校のときに六回も転校して周囲から疎隔された感覚を味わう経験が積み重なったせいかもしれない。
私はどちらかと言えば「システムに乗りやすい人間」で、宮台氏のような感覚は記憶にありません。ただ、20代中盤で気付いたことがあって、それは「自分の第一の感覚、考えは大抵は間違っている」というものです。様々な事件や出来事に対して、「第一印象で噴き上がりそうになる」ものは大抵が間違っている、この記事における宮台流に言えば「視えてもいないくせに視えた気になる」ことによるものであることに経験的に気付きいた、ということです。
例えば、イラク日本人人質事件において現地でボランティアをしていた高遠菜穂子さんを含む3人に対して大バッシングが起こりましたが、恥ずかしながら自分の「瞬間的な第一印象」は「迷惑な人だなぁ」でした。しかし、前述のような経験則があったため、「あ、たぶんこの第一印象は間違っているんだな」と判断することによって、彼女の行動の是非(やや見通しが甘い部分があったことは間違いないと思います)について冷静に考えることが出来、またマスコミの反応や政治家の発言の間違いに、彼らよりは先に気付くことが出来たように思っています。
だから、映画のラストで「彼女は終生息子を探し続けた」という趣旨の字幕が映し出されるのを、「希望を失わない人生」への賛歌だと受け取るとすれば、それはとんでもない誤解である。そうした誤解はイーストウッド作品をまったく理解していないことを意味している。
この辺は、以前にいつもお世話になっているコブタさんが、「あの話はハッピーエンドか悲劇か」という問い掛けをオフ会でされていました。私は確かハッキリとは答えられなかったような記憶があります。なんだか理解に自信がなかったというか..。(どちらかを適当に言ったかも知れません)ただ、「システムに乗ること」が本当に幸せなのか、「乗れないこと」が不幸せなのかというと、それはそんなに単純じゃないんじゃないんだろうか、と感じます。現に、宮台氏は自身が「遅れる」存在であることを自覚しているわけですし。まぁ、宮台氏は「乗れないこと」を利用して逆にシステムに(意図的に)「乗っている」ところがあるのでやや複雑ではありますが。
いずれにせよ、この映画批評は(実は「国道20号線」の記事のときにはイマイチしっくりこなかった=実感としては理解できなかったのですが)私にとっては有意義な「一つの模範解答」となりました。正解なのかどうか(そもそも正解が存在するのか?)は私の知るところではありませんが、少なくとも「思考訓練」の引き出しの数を増やし、その容量を大きくすることにはなったと考えています。
付け加えて言うなら、自分にとっては、「答え合わせ」の前に自分の稚拙な考えや意見をコトバにして残しておくことによって、言い逃れができない状況を作っておくことが、思考訓練をより濃密なものにしていると実感しています。そしてこの「思考訓練」はもうしばらく(ずっと?)続ける価値がありそうです。
# あ、でも、「007 慰めの報酬」や「レッドクリフPart II」のようなアホ映画(娯楽のみの映画)も大好きです。思考訓練ばかりじゃ疲れますからw
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吉川マサルと申します。Webサイト


5月 3, 2009 at 23:42:27
なるほど、この人の視点は面白かったです。
こういう風に映画を観る人はなかなかいないし、分析の方向も面白い。
ただ、私なら映画を支配しているのは「遅れ」でも、描いているのはそれではないと思いますね。
遅れは単なる現象ですが、おそらくイーストウッドは現象を描く事に興味は無いでしょうから、遅れはロジックと考えるべきです。
人はなぜ遅れるのか、遅れが齎すものは何なのか、を考えるともう一段深い作品分析が出来そうです。
個人的にはこの人の分析を読んで、映画を思い起こすと、迷い→後悔→恐怖→迷いというループする心の流れが浮かび上がってきました。
あらゆるシステムは人の心が作る事を思えば、ここにこの作品を紐解く鍵がありそうです。
もっとも、イーストウッドがそこまでロジカルに考えているかはわかりません。
作品のテーマや描いている内容というのは、作家よりも観てる人の方が良く知っている場合も多いですからね。
5月 4, 2009 at 13:03:22
> ノラネコ さん
宮台真司という人は、普通のシネフィル以上に映画を観ている方なんですが、しかし「シネフィル嫌い」であることを公言しています。その昔、大学の蓮實重彦ゼミに参加していたとき、周囲の「映画のことはやたらと知っているのに社会を知らない」連中に嫌気がしたそうでして。まぁそういう人(社会学者)の文章ですから、他の映画評論家と違った視点になるのは当然といえば当然ですね。
> 個人的にはこの人の分析を読んで、映画を思い起こすと、迷い→後悔
> →恐怖→迷いというループする心の流れが浮かび上がってきました。
まさにそうですね。しかもこれは、実際の社会においても十分に起こりうる(あるいは日常的に起こっている)事象である気がしますね。
> あらゆるシステムは人の心が作る事を思えば、ここにこの作品を紐解
> く鍵がありそうです。
システムによる快適さをベタに喜んでいる時期がモダン、「実はシステムの手のひらで踊っているだけ」であることに気付いてからの時期がポストモダンだとすれば、彼女はまさに「モダン前夜」の時期に、その遅れの特性ゆえに「思わず」システムの外側から社会を視ることになってしまった、つまりポストモダン的な視点をたまたま持ってしまったということなのかなと思います。それは彼女が特段すぐれていたわけでも、不屈の精神力がそうさせたわけでもなく、単に彼女の特性と事件のタイミングがあったが故の(彼女にとっては)悲劇だったということなのかなと。
> もっとも、イーストウッドがそこまでロジカルに考えているかはわか
> りません。作品のテーマや描いている内容というのは、作家よりも観
> てる人の方が良く知っている場合も多いですからね。
言語的な意味でのロジカルな理解をしているかというと、そうではない気がします。でも、「言葉にはしない(できない)けれど、分かっている人」っていますよね。彼はそういう人なのではないかという気が私はします。
5月 8, 2009 at 12:12:00
僕も「乗れない人間」です。
でも彼の言っていること、わかる気がします。
例えば最近の新型インフルエンザ、状況を冷静に把握できている人が全体の何割いるでしょうか。
「良い」「悪い」ではなく、「乗れない人間」というのは多くの場合マイノリティなのではないでしょうか。そして各個人がマイノリティとなる場面は様々である・・・とか。
宮台氏の文章は非常に明確なものを感じますが、知識が多すぎるあまり、バックキャスティング的に論を展開している気がします。
まぁでも、僕には「君の考えはクズだよ」と言い切れるだけの自信はないので、そこは素直にうらやましいです。
それにしても、いい映画でしたね。グラントリノ、来週見てきます^^
(ウォッチメンを見ると、終電が微妙な上に、その一本しか上映していないんです・・・いや、ネットカフェに泊まって見ます^^;)
5月 8, 2009 at 22:16:37
> onaplain1119さん
新型インフルエンザについては、「もし自分がかかったら…」よりも、「日本で大流行した場合、会社の経営的にヤバい」ことがずっと心配でした。強毒性ではないと連日報道されているので、パニックになる感はありませんが、それでもメキシコ料理店とか豚カツ屋さんに人が入らなくなるとか、ワケの分からない現象もあるようですねぇ。
宮台氏については、文章の分かりやすさとやや強引とも言える言い回しが私には魅力です。内容的には、最初に読んだ本を知人に貸したときに、「この人が言ってること、お前がいつも言ってることと似てるやん」とか言われたくらいで、どうやら自分とは考え方が似ている部分があって、その考えをきちんと文章にしてくれるので私としては気分が良い、みたいなところがあるんだと思います。まぁ、私は彼ほど頭脳明晰ではありませんが、方向性はちょっと似てるってことで。(アイロニカルなところとか)
グラントリノは誰にでもオススメできるし、できるだけ多くの人にみてもらいたい映画です。是非!(ウォッチメンは、まぁハズレと感じる可能性もあると思いますよ。観るならご覚悟を。(^^;)